2016年3月8日火曜日

2月27日伊藤チーム稽古⑧

2月27日(土)暖かくなってきた日


そろそろ稽古場日記でネタバレになってはいけないと思いつつ、
恐る恐る書きたいと思います。

今日は「〜らどうなる」という話をはじめるところからスタートしました。
時間を測って録音しながら、出村さんが話し始めます。



「〜らどうなる」という話は、結構親しい友人同士でもあまり話さない話題かもしれません。
人によってはこういう話題は話すことを嫌がる人もいるかもしれません。
どうなんでしょうか。

出村さんはわりとニュートラルに話します。
出村さんが、こういう「〜らどうなる」感をもっていることは少し意外でした。

自分はどう思っているのだろう?と思うと、まだまだ答えのない大きな問いというか、私はわからないまま置いているなあ〜と思いました。(わからないまま置いていることのなんと多いことか。。。)

出村さんは、一つ一つの言葉を確かめるように話します。
伊藤さんは、そこで、それはありのまま話しているような感じ?と尋ねます。
出村さんは、言い切ることはできないので、と言います。
・・・たぶんだれも言い切ることができないことを話しているので、そうだろうと思います。

それについて、伊藤さんが言います。
「確定しきれない気持ちっていうのは共有されうるかもしれない。





それからこないだの稽古で出村さんは嘘がうまいということがわかったので、
いろいろ実験をしてみようと思うということで、実際に実験(?)がはじまりました。

ちょうどこの稽古の少し前、ある事故があったのですが、そこに関わる人物をやってみるというのやりました。

出村さんが、その人になり変わって話をします。

その人物が実際はどんなふうに話すのか、どんな人間なのかは私も伊藤さんもわかりませんでしたが(もちろん出村さんも)、出村さんは、出村さんなりのその人を慎重に演じられていました。

その人に対しての、気の毒さや、たぶん同じ立場だったらそう思うだろうなというような気持ちを丁寧に代弁されているようでした。

ここにも、「いたこワーク」の中で出てきた、他者の尊厳のようなものを守りながら行う演技のようなものが見られました。

実際の人間を、代弁するような演技というのは、自分勝手に創作できるものではないから、逆にそういう意識が働き、丁寧なというか、真摯な演技になり得るのかなと思いました。
踏みにじる恐れがあってはいけないものを扱う、というところから。
また、出村さんという俳優さん自身にも、人のもの(人生を含めて)をみだりに侵してはいけない、という意識があるような感じがします。
それは今までの稽古でも感じることですが、そこを表現するというところで、崩せる人もいるなか、そこを守ろうとする出村さんのあり方がいいなと思いました。

その後、出村さんと、私とで幼稚園作文というのをやりました。
お互いの幼稚園の頃の作文(将来の夢)を想像で読むというやつです。
(以前全体稽古で伊藤さん講師だった時も、藤田さん、ていさんでやったことがあるものです。)

これはやってみると、恥ずかしいというか、照れるというか、自分の作文を読んでくれる人の良心というか、優しさが心に沁みます。
私も、出村さんの幼稚園作文を読みましたが、読む方はすごく難しかったです。(やったことがないかたはぜひやってみてください。)
これも、相手の幼稚園の夢を台無しにしてはいけないという気持ちが働きます。
実際の相手が目の前にいる上で、成り代わるという行為は普通の演技とは全然ん違う感じがしました
例えば、相手に鏡を見せて、美しいところを一つ一つ指摘していくような恥ずかしさがあります。でもそういう感じでした。

そのあとは、歌を歌ってみます。歌といっても、ある映画のテーマです。
やけにとりにくい音程のテーマを出村さんが頑張って歌います。
その後、音程を変えていきます。
人が高い音をだすときは、なんらかの力がかかり気味になります。
そのかすれ方とかがそれぞれ違うので、聞いていると面白いです。
また声は出すごとに、喉が温まっていくのでだんだん綺麗な声になっていっています。

伊藤さんも言っていましたが高い声というのは、ホーリーな感じがします。
ヨーロッパの聖歌隊も(適当)ホーリーな感じの高音の男の子たちが歌っていますもんね。

それから今度は、音楽に合わせて踊ってみました。
伊藤さんも入り、私も寄せていただき、普通に楽しく体を動かしました。
あんまり何も考えず動物的に音楽と体を動かすのは気持ちが良かったです。
それから最終的に出村さんだけになって、出村さんが苦手?というか、あまりやったことがないという、音楽に合わせて踊るということをしました。

今までの稽古でもやっていたような方法で踊りましたが、音楽の効果もあってとても美しいシーンになっていました。
特別、何か気持ちを乗せて踊っていたわけでもないということですが、その方法で踊るという行為自体が意味を持たせるので、いろいろなふうに見えました。









出村さんは、この綺麗な音楽と一緒に、こういったダンスをすることに、少しいかがわしさを感じていたと話していました。

「いかがわしさ」について、出村さんと伊藤さんで少し話をする時間が持たれました。

これは私の個人的な感覚ですが、人の悲しみを誘うようなものって、いかがわしさを含んでいるように感じます。それは「誘う」ようになっているからなのかなあと思います。
ただ「悲しい。」ではないから、こちらからの悲しさを引き出そうとしているのだろうか?と見ている側が感じるから、または演じている人が、引き出そうとしているように見えないだろうか?と感じるから、いかがわしいのではないか?という感覚が生まれるのかなと思いました。

好みもあるのだと思いますが、音楽の選び方は本当に難しいと思います。
今回の選曲はたまたまという感じなのかなと思うのですが、
やっていることと、見え方と、そこにどんな音を入れるかは、本当に吟味されないといけないし、難しいなあと思います。
やらしくなったら台無しやし、やっている方にもよくないし、と、いろいろと考えさせられました。

私はこの出村さんの言っていた「いかがわしさ」みたいなものを、これを書いている
今日もまだ、気にしています。

たびたび演劇をやっていると出会う、「いかがわしさ」、いかがわしいものを作っているのではないかという感覚、そういうものを書いているのではないかという感覚、
この少し背中を見返すような感覚の根っこはどこにあるのだろうか、ということを最近でもよく考えます。

この日の稽古はこれで終わりました。つづく・・・

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