2016年1月29日金曜日

1/23 伊藤チーム稽古③

1月23日(土)晴れ とても寒い日。

今日はゲストが来る予定でしたが、来られず、出村さんと伊藤さんとのマンツーマンの稽古でした。

いつものように雑談からはじまり、作品についての話しになりました。

過去に伊藤さんが仙台で作った「もっと見ろこともなげに」の作品で
参加者にした宿題を出村さんにも渡していて、
そこには個人的な質問がいろいろと書いてあるのですが、
それについて、どう思いますかとの伊藤さんの質問に出村さんは、
この宿題を基にして作るとしたら、私は、これを私がするとしたら全然面白くないし、見たいとも思わないと、答えられていました。

それに対して、伊藤さんが、じゃあだれかに化けたい願望がある?と質問。

出村さんは、

自分以外をやりたいというわけではない
別の人生をやりたいというのはない。
でも普段の生活をしているときの自分と、本当の自分がいっしょかもわからない。

私がどこでうまれてだれがすきで
みたいなことって 最初に演劇をはじめたときはそういうところじゃないところでみてもらえる、どこ出身でだれ、というか、そういうことを聞かれないところで
見てもらっているっていう感じがいいなあって

というようなことを、おっしゃっていて、他にもいろいろ言ってはったんですが、
それが印象的でした。

どうして舞台に立つかという動機は、役者さんによってそれぞれ違うのでしょうが、
なぜ俳優をしている、というような問いは、なんだか広い広い問いのように思えました。

自分がやっていることの動機なんて、自分がそれを本当の本当に知っているかといえば、
私はそんなに知らないような気がします。

口から出るような動機や理由は、あくまで自分で知っていることで、
自分も知らない動機や理由を人は持っていて、本当はそういうところから動いているように思うことがあります。
それは 思っていることと違うことを言っている、している、というのではなくて、
自分が意識していることと、意識していないこと、という意味です。




その後、伊藤さんが持ってきた詩を出村さんが朗読しました。
山村暮鳥の幸福という詩です。




山村暮鳥 さんの静かな雰囲気の詩を出村さんが、ひたひたという感じで読んでいきます。この詩と出村さんの雰囲気がとてもあっていました。

その次は、私も参加しての稽古になりました。
参加してしまったので、写真はとれていないのですが、

出村さんと向き合って、インタビューをするとか、哲学的な問いかけをしてもらい
それに普通に答える、次に短く答える、目だけで答えるということをしました。

なんとなくこのインタビューをしながら、映画「うたうひと」のことを思い出しました。

うたうひと 

と言っても、私はこの映画は見ていなくて、映画の基になった、民話を語る人をたくさん
撮影してアーカイブしている「みやぎ民話の会」さんのことを聞いたことがあり、
またその映像を見る機会があり、そういえばこの映画見たかったなあと思い出したのでした。

うたうひとのサイトのプロダクションノートに書かれている文章は、みやぎ民話の会の顧問の小野さんが書いたものですが、なんだかなるほどなあというような気がします。

「語り、聞く」ということが成立するには、語り手に普段とは違うもうひとつの人格を求めるような所があるように思うのですが、聞く方も同じだと思うんですね。つまり、語る方が一の力をお出しになったら、聞く方が三ぐらい出して、もうひとつの自分をそこでつくりだしていかなくちゃならないように思います。それが具体的にどういう方法かというと、うまくは言えないんですが。
私は折口信夫の本から時々に学ぶのですが、古代の人たちは、訪ねて行って、門まで行ってすぐその場で帰る人間をものすごく卑しい者とした。やっぱり中に入って、そこで融合して解け合って、もらったり与えたりしたときに、人間の喜びと創造があるという意味の事を書いておられるんです。たしかに私たちも語り手を訪ねていったとき、明らかに他人であり、他所者なんです。だから、門の前から引き返す、これは精神的な意味合いなのですが、門の中に身体は入れていただいても、引き返す姿勢でしか聞けない者もいる。聞くふりをすることしかできない者もいる。
だから、門の中に入るということは、そこで門をくぐったときに、自分を変えなくてはならないんですよ。どういうふうに変えるかって言われても、そこはもう、聞き手の感性によるよりしょうがないのですけどね。
「語る」と「聞く」ということの間に成立する空間というものは、実はものすごく神秘的なものがあるような気がします。それを許された語り手と聞き手の間にだけ成立した空間で、そのふたりにだけが共に門の内にあって味わうことのできるもの。そういう瞬間を感じることは、時々あります。そういうとき、自分がそこでカタルシス(浄化)されているような気がします。



私は出村さんから問いかけられる側だったのですが、なんだか改まってひとに
聞かれるというのは、難しいというか、また、出村さんだけじゃなくて、演出の伊藤さんの存在というのも意識しているなあと感じました。
どう答えていいかというところとか、どう答えないといけないかとか、伊藤さんのねらいはなんだろうとか、そういうことを結構意識していたなあと思います。

このみやぎ民話の会さんが、東北地方の民話を集める作業をされいたとき、インタビューの10分前かなんかそこらへんからカメラを回しだして、終わったあともしばらく回しているのだと聞きました。
で、結局編集ではその前後がよかったりして使ったというような話も聞きました。
カメラの役割って大きいんだなあと思いました。でも、芝居でいうとこれは演出とかお客さんになるのかなと思ったりしました。
どうなんでしょうか、、、

話が飛んでしまったのですが、問いに目で答えるというのもやったのですが、
こちらは瞬きをしたり、体も動くし、なんだか目だけしか使ったらあかんとか考えてしまってとても難しかったです。

人間の思考って、本当にややこしくて、決められたタスクがあっても、
それ以外に本当にたくさんの考えがばーっと動いて、それだけを純粋にするというのは
結構難しいものですね。

最後は出村さんが私に哲学的な質問、(例えばあなたにとって死とはなんですかなど)を考えてくださり、問いかけ、そしてその質問に自分で答えるというものをしました。

出村さんが自分で作った問いですが、ご自身で答えるときはうーんと考えられていました。
その考えられている様子が、すごく自分の中にもぐっている感じがしていいと伊藤さんが言っていました。
人が自分の内側に触れながら、確認しながら話す様子というのはいいなあと思います。


そして、伊藤さんいわく、役者さんというのは、そうしているように、そのように見せる技術が必要なのだそうです。

出村さんが自分の質問に自分で答えたあと、山村暮鳥の詩を読みました。

「幸福」
山村 暮鳥

よもすがらきみとねむりて
きみときくやみのしたたり
よもすがらきみとねむりて
しづかなるこのともしび
きみときくやみのしたたり
おとなくおつるそのしたたり

なにゆゑのあしたのいのち


とてもいい詩だなあと思いました。
そんなことは書いていないのに隣で眠っている妻(恋人ではなく)の寝息の湿度や音まで感じられそうな詩です。

今日やった稽古では
問いかける、答えるということを主にやりましたが、問いかけると答えるというようなことは、簡単なようでいてすごく難しいことなのだと思いました。
どのラインまで踏み込んで問いかけるのか、というか、どこまでの気持ちで問いかけるのかとか、どこまで開いて答えるのか、どこまであえてずらして答えるのかとか。
人がどの段階まで相手に関わろうとするかによって、その問いかける、答えるの姿って変わってくるのだろうなあと思いました。

まとまりのない稽古場日誌ですが、23日の稽古はそんな感じでした。


それから出村さんが出演された映画が公開されています。

ハッピーアワーという映画です。
あ、これって、先ほど書いた「うたうひと」の監督と同じということに今気づきました。
ぜひ、足をお運びください!!
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出村さん出演作品
濱口竜介監督「ハッピーアワー」
1/23〜 第七藝術劇場(大阪・十三)で公開。
2/6〜   京都の立誠シネマ、2/20には京都みなみ会館のオールナイト上映
5時間45分の大作です。


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