2016年1月30日土曜日

1/30 筒井チーム稽古④

出席者:鄭、楠、浦長瀬、前田、佐々木、藤田 他見学者1名

月日の経つのは早いもので、もう今月最後の稽古となりました。

■チェックイン

まずは筒井チーム恒例のチェックイン。
その時のふわっとした朝の時間が私は結構好きです。
訥々と「さておくこと」を語る参加者のひととなりが感じられて、とてもいい時間だと。


巷ではぼちぼちインフルエンザが流行っているようのですが、今日の稽古場も体調不良で欠席が一名。
出席の楠さんも喉をやられているようで声がガラガラ。それを「さておく」のではなく受け入れて稽古に臨む、と楠さん。
この稽古の場、というよりは日々チェックインしなきゃ、という感じがある、と言う前田さんに個人的になんか同感。

■チェーホフ「かもめ」を使ってⅡ

最初のワークは、筒井チーム初回稽古でも行った、チェーホフ「かもめ」・第一幕序盤のトレープレフとヤーコフ、二人の計2ページほどのやり取りです。

佐々木くん、藤田くんの二人に演じてもらい、他の女性陣がそれを演出する形で行いました。 筒井さんからは、シアタードラマシティで演じることをイメージしてやって欲しい、と壮大な指示が。

とりあえず読み合わせに近い形でやってみた後、女性陣からは台詞を相手役に落とすところ、劇場全体に落とすところ、自己の中に落とすところを考えてやって欲しい、仲がよさそうにしてほしい、商業演劇的なものを想定すると、もうちょっと大きく動いてやるとわかりやすいのでは?などの意見が。
以上をまとめて、客意識を持ちながら動きを大きめに+関係性がはっきりと見えるように+どこに台詞を落とすのか意識して再度やってみましょう、と筒井さん。

  

繰り返す中で、所謂オーソドックスな「演劇」として成立させるには、舞台照明に入りに行く・顔に照明の光を浴びに行ってほしい、何処を・誰を向いているのか明確にするべき、客にお尻を向けないように、などの指摘もありました。

続いて、実はチーム分け後初参加の藤田くんの呼び名について皆でシェアしました。
過去も含む日ごろの呼ばれ方…藤田くん、藤田さん、カズヒロ、カズ、パイセン、ふっちょ、珍プレー好プレー(?)、など。
あと佐々木くんの新あだ名(過去の)判明⇒「じゅんじ」。詳細は彼に直接聞いてください。。。
以上、欠席者の方も頭の片隅に置いといてくださいませ。

■ピクニック

次は筒井チームの稽古では恒例となっている「ピクニック」です。
恒例ということは、 作品自体の芯となる可能性が非常に高い、ともう言っても良いでしょう。
なのでこのワークの内容をどの程度詳しく記述して良いのか悩むところですが、ほどほどに小出しにしていけたら、と。

 

前々回の稽古から、

「俳優がピクニックを自然に舞台上で行う中で、ある出来事や要素に対して、この要素こそピクニックを実現化させるため必要、と思った時、舞台面に出て観客にそれが何かを伝え(○○がピクニックです)、何事もなかったように元に戻る」

というミッションがプラスされているのですが、今回はその俳優へのミッションが結果どういったものであるのが望ましいのか、方向付けが成されました。
私たちがピクニックという状況を成立させるために行っている演技を感じとることが、俳優陣には今後一層必要とされる、そんな気がします。

■演劇的(?)ピクニックをやってみた

いつものように数ターン行った後、常に「自然さ」を意識して行っていたピクニックを、所謂「演劇」的な演技で一度やってみよう、と筒井さん。
アクションリアクションを大きく、芸術創造館のサイズを想定し、ことあるごとに互いの名前を呼んでいきましょう、とのこと。

  

…結果はいつもは結果的に封じられていたベタな「演技」が解放されたせいか、終始爆笑の渦が広がる展開に。
笑いながら観ていた筒井さんからは「演劇って面白い!可能性を感じた」という言葉も。

いつものピクニックとどう異なるか?について参加者からは、使っている部分が違う、起こすことの質が違う、嘘ではあるが本当の幸せもあった、いつものピクニックはすり合わせをしないといけないが今回のは前提が共有しやすい・考えなくていい公式みたいなもの、起こるすべてのことに乗っかってリアクションした・いつものピクニックも起きることに乗っかっていけばいいと思った…などなど。
また、楽しいけど答えがわかっている感があるので、早く終わらないかなと思ったという参加者がいる一方、逆にこれをずっとやっていたいと思った、という参加者もいました。

そして2ターン目は、

「参加者が演劇的ピクニック中に「これぞ演劇!!!」と感じた瞬間、舞台面に出て観客にそれが何かを伝える(○○が演劇です!!!)」

…というミッションが追加。これもまた盛り上がるのなんの。

 

参加者からは、1ターン目より頭を使っている感があり面白いという意見や、これをテキストに起こしてやるともっと演劇的になるのでは、という意見も出ました。

主に参加者に課されるミッションについてどうするか課題があるようですが、 それが浮かび上がったことも含め、このバージョンの実験は筒井さん的には収穫あり、のようです。

■自己紹介と自己

本日のピクニックは終了、次は前回の稽古でも行った自己紹介です。


皆一列横並びになり、紹介するのは名前・出身地・普段何をしているかの3点です。
これも前回と同じく、佐々木くんだけウソをついてもらったのですが、佐々木くんの微妙な出身地のウソなどほぼ誰にもわかりません(わかるとしたら親兄弟くらいでしょうか?)。しかしウソはウソ。でも自己紹介の体を成しているように見えることの何とも言えないビミョーな不思議さ。
筒井さんから皆に、今の自己紹介の際に意識したこと・感じたことについて問いが投げかけられました。
参加者からは、真っすぐに立つ、プレーンな感じ、視線真っすぐ、私として聴衆に向けて語ろう、初対面の人に対してのある種の緊張があった、逆にいつもよりリラックスした、向こうも自己紹介してくれると思ってやったので舞台上で行った意識が無かった、などなど。

それを受けての自己紹介2ターン目は、全員舞台上におり客席には観客もいる、という体でやってください、との指示が。
観客がいる、という想定なので当然音量は上がりますが、それ以外の何かを実現化させようとしていたと感じられた人もいたようです。参加者からは、舞台上ということなので無意識に姿勢が良くなった、観客に受け入れてもらおうという覚悟をもった、という人も。また違う課題が出てきた、と筒井さん。

再び、佐々木くんの出身地のウソの話に戻ります。

そもそも、なぜ皆自分の出身地を知っているのでしょうか?
親に言われたから、住民票で見たから、などという声が上がりますが、それってちょっと怪しいんじゃないか?そもそもその親は本当に自分の本当の親なのか?…と、筒井さんは大学院の時に聞いたという、ヒトは永遠に中心を指すことが出来ず(その中心の点は拡大すると無数の点の集合であり、その無数の点一つ一つも拡大すると無数の点の集合であり…という風に)、中心は存在しない、つまり「中心」は「概念」でしかない…という話を例に挙げ、何事においても突き詰めて考えすぎると怪しく、疑いだすとキリがなく確かめようがないので、ヒトは何らかの「概念」を信じるしかなく、そうした積み重ねで私たちの自己は形作られている、そういう人に成っている、と語りました。
…そう考えると私たちのアイデンティティのなんとおぼろげで不確かなことでしょう。唯幻論とか共同幻想論とかが頭に浮かびましたね、、、(読んでないけど)

そんな感じで筒井チーム、笑いが絶えないかつ抑えるところはきっちり抑える、絶妙な感じで進行中です。
以上、三田村でした。

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本日見学に来て頂いた、劇団うんこなまずの作・演出であり貴重なzombieブログ読者の一人・繁澤邦明氏からも詳細な稽古レポートが届きましたのでこちらも是非ご覧ください。

引き続き当企画では稽古見学希望を広く受け入れております。
希望の方は関係者またはcttoskアットマークgmail.comまでお知らせください。


zombieブログをご覧の皆さま、はじめまして。繁澤@うんなまです。
自他ともに認める(?)このzombieブログ一番の読者の私ですが、今回よもやまさか自らが書いた文章がこのzombieブログに掲載されるなんてことが発生するとは、と、静かな興奮を禁じえず、午前5時の衝動に身を任せてこの文章を書いています。

今回、1時間半程度の稽古見学だったのですが、主に以下4点について見させていただいたように記憶しております。
 ・「リアルな」ピクニック
 ・「演劇的な」ピクニック
 ・自己紹介について
 ・中心について
個々の内容については私が書いてもアレなので割愛しますが、せっかくなので見学ふまえ感じたことを書いていこうと思います。もしかしたら完全にトンチンカンなことを書いているかもしれませんが、ご容赦下さい。

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個人的な最近の興味事というかテーマとして、「舞台上にいる役者はなぜあんなにも台詞を発することを許されているのか」といったことがございます。もっと言うと、日常で私たちが喋る言葉の重みとか、責任に、舞台上で喋る言葉は追いつけているのか、ということです。

もちろん、そのベクトルをそも欲していないだとか、役者の力量だとか、そういったetc観点はあるのですが、なんだか気になっているのです。私たちが日常で発する言葉(もちろん行動もですが)は、自分の人生を大きく左右する(もちろん他人もですが)ものであり、つまりは常に大きな「責任」を有しているし、意識的にせよ無意識にせよ「考えに考えた末の選択」だよなと、最近常々思うのです。考えているのは自分か、他人か、ということもあるでしょう。なんにせよ、既に演技まみれなのではないかと。(ヒトは社会的な生き物だから、という一言で完結する話かもしれません)

舞台上に役者が立つ理由が「そういった日常の鎖」的なものから解き放たれたい、というのもあるかもしれませんが、それにしても、少なくとも劇的なことが起きる人々を演じるにあたり、なんであんなにも朗々と喋ることができるのだろうか、というようなことを、最近とみに感じています(観客の
方々もそういった日常の鎖から解き放たれたい?あるいは、台詞とは何か、という問いでしょうか)。

ということを考えながら見ていたのが、「リアルな」ピクニックと、「演劇的な」ピクニック、でした。ベースとしては、ある程度段取りの決まったエチュード?なように思っています(違っていたらすみません)が、もちろん出し物としてのベクトルもあるのでしょうが、にしても、なんというか振る舞いの持つ責任感、にじみ出るもの含めて、って全然違うよなと、感じたのです。あまり上手いこと書けていませんが。

役者の方々のやっていたこととして、「リアルな」方は関係性を築いていく作業なのに対し、「演劇的な」方は自己を主張していくような、そんな印象を受けました。「リアルな」と「演劇的な」は、やり手にとってそもどっちの方がスリルがあるのか、また楽しいのか、とかとか疑問も持ちつつ、しかしながらも「リアル」と「演劇」について、「俳優」という視点にとかく限定して思いを馳せることができたのが、個人的な感想というか、見学の満喫の仕方でした。

zombieのコンセプト?として、
【舞台に立つ俳優たち一人一人の創造性/想像性に重きを置いた創作】
ということがHPに書かれているのですが、ここまで書いて、ほうほうなるほど、と思ったり、思わなかったり、しています。まだまだ項目というか、作業というか、俳優から引き出されることが沢山あるのだろうなと、非常に興味深い稽古場ですということを書いて、このイヤに長々とした雑記を終えたいと思います。ありがとうございました。

もしかしたら、全く予想だにつかないものが観れる機会なのかもしれません。
あと、役者と俳優の違いって何なのでしょうか?チャンスあれば、また稽古場を覗いてみたいなと思います。

★劇団うんこなまずの直近の予定は↓。皆様お時間あれば是非★

【大大阪舞台博覧会vol.2】
日程:2月6日、7日、13日、14日
場所:芸術創造館
※2月13日(土)に出演します。
※上演時間…1作品20-30分
         開演30分前に受付開始
         3作品上演後、10分間の休憩をはさみます。
※詳細…http://www.artcomplex.net/doh/ 


◎うんなま単体予約(500円)
http://bakuto.cart.fc2.com/ca1/5/p-r-s/
◎1日予約(2100円)
http://bakuto.cart.fc2.com/ca1/6/p-r-s/ 


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